原因不明

最近、鬱のクリニックだけでなく複数の病院に通っている。

検査もいくつかしなければならなかった。

 

歳をとると本当に体にガタがくる、と痛感している。

特に節目の歳は。

 

不調の原因を探るための検査だったが、結果異常なしで、原因は分からないまま。

でも実際調子は悪いので、これは困る。

 

どこどこに原因が見つかりました、となれば、それを治療すれば良くなる、という希望が見える。

 

でも原因不明では…

命に関わることでないのなら、結局ガマンしかないのか…

 

でもそうやって日々悶々と悩みながら不調と付き合っていくのは、かなりのストレスだ。

 

治る見通しが立たないなら、ずっとこのまま?

精神面でもいつ治るか分からないものと闘っているのに、身体でも?

 

と、ますます気分が落ちる。

 

心も体も単純で簡単なものでないのは分かっているけれど、せめて持ち主にくらいは、もう少し優しくシンプルに接してほしい。

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昨日はダメな日だった。

息苦しくてたまらなかった。

 

ふと、自分はスポンジみたいだと思った。

 

私にとってこの世の中で生きるのは、汚れた水の中でスポンジを握ったり放したりすること。

 

いくら呼吸しても、ちっとも汚れたものが自分の外に出ていかない。

新鮮な水が入ってこない。

 

だから、息をするのも辛くなったときは、何も刺激のない澄んだ水の中に逃げ込んで、一生懸命スポンジを握って放す。

 

そうすると、自分の中が少しすっきりする。

 

私にとって外の世界、周りの人はすべて刺激になる。

一人の世界が、私にとっては本当に大事。

薬を変えて

年末年始休みの前に、鬱の薬が変わった。

 

ドーンと気分が落ちることはなくなったが、常に心がざわざわして、落ち着かない。

 

周囲がすごく騒がしく感じる。

話し声、笑い声、いろんな物音、近くの人の動き、目線、気配など、ひとつひとつが私の何かに触れてくる。

 

早く逃げ出したい。

静かなところ、一人になれるところへ避難したい、と思ってしまう。

 

でも職場を出ても、家にも自分以外の人間がいる。

一人にはなれない。

無音の世界には行けない。

 

こんな状態で一般的な生活を送り続けられるわけがない。

 

でも、それも単なる弱音なのかもしれない。

甘えているだけなのかもしれない。

 

だれかに教えてほしい。

私はどこまで頑張るのが正解で、どこからが本当の甘えや逃げになってしまうのか。

 

自分では、もう分からない。

1日2回

複数回更新するのは初めてかもしれない。

 

始めのころは無理やりルーティンに組み込んで、1日1回、決まった時間に更新するようにしていた。

 

それが大切なことだと思っていた。

というか、自分がそう思って行動してるんだと思おうとしていた。

 

私は、習慣が壊れるのが怖い。

何かをしないことを一度自分に許してしまうと、そのままできなくなって、どんどん自分がダメになっていくように感じてしまう。

 

でも実際はそんなことはないし、それ以前に、やらなくてもいいようなことにこだわっているだけの場合がほとんどだ。

 

自分で自分の負荷を増やし、普通に生きるためにクリアしなければならない条件を増やしていく。

 

そうして、できなかったらどうしよう、と不安になり、無理をする。

 

そして、反動がくる。

 

傍目から見ればしなくていいことに対して無理をし、勝手に苦しんでいるだけに見えるだろう。

 

本人もそれは分かっている。

でも、やるよりやらないことの苦痛のほうが大きいのだ。

 

やって後悔するするより、やらずに後悔する方がいいとかよく言われるが、私の場合そのレベルが常軌を逸しているのだと思う。

 

少しずつ、これくらい大丈夫、と思えるようになりたい。

 

そんなに苦しまなくても生きられるんだ、と心の底から納得したい。

ひさしぶりに

更新することにした。

 

もうずいぶん放っておいてしまった。

でも何となく、またときどき書いていこうかなと思った。

 

これまでの間に、いろんな変化があった。

正直言って、いいほうの変化ではなく、よくない変化のほうが多い。

 

でも、とにかく生きて、生活して、今日まではやってこられた。

 

今日もとりあえず職場へ向かえている。

今はそれでいい。

最近のこと

前回の更新からずいぶん経ってしまった。

 

この間、私はいったい何をしていたのだろう。

 

1つ言えることは、とても波があった。

気分がいい時もあったけれど、ドンと落ちることがかつてないほど多く、朝から起きられない、動けないことも週1日くらいのペースであった。

 

実は今日もそうで、これから出勤する。

 

仕事が忙しかったのもある。

でも、今まで以上に人と接することが辛くなってきた。

家族とも一緒にいるのが正直しんどい。

 

朝起きられないときも、布団から出て、寝室から出て、人と顔を合わせ、人のためにご飯を作り、人のために人のために人のために…が続いていくことに恐怖を感じて、このまま誰とも会わずにいたい、と思ってしまうのだ。

 

それでも、完全に何もしないわけにもいかないし、もちろん仕事もそうそう休めない。

 

本来なら、遅刻してでも出勤できた自分を誉めてあげないといけないのだろう。

(もちろん社会的には迷惑な存在なのは自覚している)

でも、そうやって遅れて動き出したとき、私は自分を責める。

 

どうせ起きるなら、何でいつも通りに起きられなかったのか。

また人に迷惑をかけてしまった。自分は何様なのか。

たった数時間休んだところで何も変わらないのだから、最初から我慢してさっさと動け。

 

今もその念に囚われながら通勤電車に揺られている。

 

いつ、どうしていたら、鬱病になんてならずにすんだのだろう。

今からでもリセットしたい。

 

そんなことを駅のホームで考えてしまっていた。

こだわりを捨てる

 

前回「心の大掃除」について書いてみて、あらためて私にはこだわりが多いのだということが分かった。

 

特に、自分の中での決めごとのようなものが勝手にできあがっていて、それを破ることが自分にのってものすごくマイナスになる、という思い込みのようなものが強い。

 

このブログもそうだ。

 

始めたとき、なぜか私の中で「毎日更新しないといけない」という刷り込みができた。

 

それを怠ると何か悪いことが起こりそうで、いろいろなことを後回しにしてでも記事を書いた。

 

書きたいことがたくさんあったのは事実だけど、それを思った通りの文章にするのは難しかった。

 

文章を書くのは好きなはずなのに、義務として言葉を綴ることは辛かった。

 

誰と約束したわけでもない。

評価されるわけでもない。

誰も読んでないかもしれない。

 

それでも、1日欠けることがなぜか怖かった。

 

でもあるとき、どうしても書けない日があった。

 

そうしたら、大丈夫になった。

 

1日更新しなくても何も起こらなかった。

きっと読んでくれてる人は読んでくれてるし、読まない人は毎日更新しても読まないんだ。

それでも私は何も変わらない。

 

だから今は、できる時にしか更新していない。

それでいいと心から思えている。

 

 

でも、私は、どうしてこうなんだろう。

 

手に入れたものがこぼれ落ちていくのがたまらなく怖い。

 

自分の存在に気づいてくれた人が、こっちを見てくれなくなるのが怖い。

 

全速力で走り続けていないと、転びそうで怖い。

 

だから私は常に全てを、力の限り、気がつく限りやりきろうとしてしまう。

 

このこだわりが自分を苦しめていることも、分かっている。

 

適度に力を抜いて生きていれば、そんなに傷つかなくて済む。

 

力を入れすぎるから、必要以上に傷つく。

 

それは、ジョギングしている人がつまずいて転んでもかすり傷で済むのに、全速力で走っている人は大ケガをするのと同じなんだろう。

 

私は、日々を暮らすことにすら力が入り過ぎている。

 

だから、つまずいてしまったとき、普通の人ならちょっと傷つく程度で済んだことが、鬱病の発症にまで至ってしまった。

 

「適度」と「手抜き」の境目が、私には分からない。

 

でももう少し力を抜いて生きないと。

 

人間、ずっと全速力で走り続けることなんてできない。

いつかまた、ガタがくる。