HSP③

 

思い返すと、自分がHSPと考えるとしっくりくることが、小さいころからたくさんあった。

 

映画も1つだが、最大級に苦手なものの1つにお見舞いがあった。

 

重病の人を見舞うのは誰しも気が重いものだと思うけれど、私の場合、入院している人がたとえ骨折やら盲腸やらで、しかも退院間近だとしても、やはり「お見舞い」が怖かった。

 

それは、入院病棟という「『苦しむ人や悲しむ人がたくさんいる空間』に足を踏み入れること」が心理的に辛かったのだということに、HSPの気質を学んで気づいた。

 

もちろん入院している全ての方が苦しみ、悲しんでおられるわけではないということも分かっている。

 

けれども、患者さん、お見舞いに来られている方、お医者さん、看護師さんなどは、入院用のベッドが並ぶあの空間の中で、きっと楽しいことより辛いことの方が多いのだろう。

その空気に、皆の思いに、自分が染まっていくのだ。

 

そして、

そんな場所に、自分は場違いではないだろうか。

私のような人間がお見舞いに来たら、病気の方に自分の健康を見せびらかしているように思われるのではないか。

自分の発した言葉で、不快な思いをさせてしまうのではないか。

そんな不安が頭いっぱいに広がる。

 

でも。

HSPイコール辛いもの、という単純な式が成り立つものでもない。

 

もうずいぶん前のことだが、祖父が亡くなる直前、人工呼吸器でもう話せなくなっている祖父を見舞ったとき、様々な思いが溢れだしてきて、涙が止まらなくなったことがあった。

 

その話をある年長者にしたとき、彼は「あなたには『チョウセキ』の力があるのですね」と言った。

『チョウセキ』とは『聴石』と書き、仏教関係の言葉だそうだ。石のように、言葉を発しないものからでもその思いを感じとることだという。

「あなたは、何も話されないお祖父さんから、いろいろな心の声を聴くことができた。孫娘に思いを伝えることができて、きっとお祖父さんも安心してあの世へ行かれたと思いますよ」

とその方は言ってくださった。

 

この『聴石』はまさにHSPのもつ気質だと思う。

自分と他人との境界線があいまいで、相手の考えに敏感、そしてそれに共感しやすい。

それは言い方を変えれば、物言わぬ相手であっても、その心の中を想像する力に長けている、ということなのかもしれない。

 

HSPは「繊細さん」とも呼ばれるらしい。

相手の気持ちに共感できる。

少しの変化にも気付き、細かな心遣いができる。

アンテナが敏感で、素直に反応、感動できる。

そう聞くと、HSPも悪くはないなと、少し自分を肯定感に捉えられる。

 

しかし、しかしだ。

HSP当事者にとっては、この敏感でアップダウンが激しく、疲れやすい精神と一生ともに生きていくのは、程度の差はあれど、やはり辛いと思う。

私の場合、それが病気にもつながってしまった。

 

結局は、自分で自分の性格や特質をどうとらえるか、どこで折り合いをつけるか、なのだろう。

 

自分がいたわられているのか、傷つけられているのか、同じ行動からでも、最終的にその感じ方を決めるのは自分自身でしかないのだから。