好きなもの①

 

私はこれが好きだというものの1つに、読書がある。

本を読むのは好きだ。

 

子どものころから好きだったわけではなく、むしろ読書感想文のために無理やり読む感じだった。

 

本は「読まされる」ものだという意識があった。

 

高校生のころ、何かのきっかけで図書館に行き、たまたま興味を引かれた小説を手に取り読みはじめた。

そうしたら、読書の世界にはまってしまった。

 

初めて、本は「読みたくて読むもの」だと感じた。

 

凝り性なので、気に入った作家の本や、好きなシリーズの本をひたすら借りて読み続けた。

読みたいけれどなかなか出会えなかった本に出会えたときは、物凄く嬉しかった。

 

経済的に厳しかったので、本を買うことはできなかったが、構わなかった。

 

図書館という場所自体が、私には向いていたのだろう。

 

本で埋め尽くされた、物音のしない静謐な空間。

感覚が過敏な私にとっては、刺激の少ない図書館はとても落ち着ける場所だった。

 

また以前、育ってきた環境について書いた回を読んでくださっている方はご存知かと思うが、当時の私は家で毒親ならぬ毒姉によって虐げられていた。

 

彼女からの避難シェルターとしても、図書館という場所、そして読書という没頭できる趣味は、大切な役割を果たしてくれたのだ。

 

それ以来何十年にも渡って、私は本を読み続けている。

 

高名な文学作品などには頭がついていかないし、読める時間も昔ほどは確保できないが、好きなジャンルの本を、自分のペースで読んでいる。

 

テレビや映画のように、視覚や聴覚からの情報が多すぎると私にはストレスになる。

 

私はあらゆる情報を全身で受け止め、共感してしまう。

他人によって描かれ、一方的にこちらに与えられる作り手側の情熱、熱意、一生懸命さを、私は適度なレベルで受け取れないのだ。

 

でも本は、自分の頭の中だけで、いくらでも自分に合うように想像できる。

 

この登場人物はこんな雰囲気だろう。

こんな声だろう。

この人たちはこんな表情で話しているんだろう。

この場面ではこんな音が鳴っているんだろう。

 

脳内に、色鮮やかに、美しく豊かな音声を持って、自分だけの物語の世界が創られていく。

 

それが私にとってたまらなく心地よい。

 

ただ問題なのは、読書をしながら自分の想像の世界に浸っているとき、没頭しすぎて時間を忘れてしまうことがある。

(実を言うと、通勤電車で降りそこねたことも少なからずある)

 

とはいえ、それを途中で遮られることがかなりのストレスになるのも事実だ。

 

うまくバランスがとれるといいのだが。