いまのまやみ⑤

今日は私の癒しの空間、図書館に行ってきます。

 

今は徒歩10分くらいのちょっと狭い図書館に通ってます。 少し離れていますが、大きいところにもいずれ行ってみたいなと思っています。

 

私にとって家の近くに図書館があるのは、引っ越しの条件とかでもかなり重要ポイントです。

 

ただ今の図書館、2週間しか借りられないんですよね。 田舎にいたころは3週間だったと思うんですが、都会は厳しい…。

 

読みきれずに返却することもあります。

まぁ、また借りますけど(^^)

性格のゆがみ

 

自分で言うのも何だが、私の性格はかなりゆがんでいると思う。

 

お世辞にも良いとは言えないだろう。

 

一番きらいなところは、他人の幸せを喜べないことだ。

これはずっと昔から。

 

例えば自分もその幸せを求めているなら、先を越されたことに嫉妬を感じるのはよくあることだろう。

 

不思議なのは、私の場合、その人の幸せが自分にとっては何の価値がない場合でも、純粋に「よかったね」と言えないところだ。

 

何かモヤモヤする。

 

何度も思い出して、その度に心が曇る。

 

たとえ1つの望みが叶ったとて、その人はまだ多くの悩みを抱えているだろう。

 

でも「いいことがあった」という一場面だけを見ることで、私の目にはその人がすべて順風満帆で幸福な人のように感じられてしまう。

 

「うらやましい」とは少し違う。

 

私は不満や不幸を感じている人に勝手に共感しているのかもしれない。

 

あるいは、私の方がまだマシだ、という卑しい優越感を感じているのかもしれない。

 

だから、その人が幸せを感じると裏切られたような、追い越されたような気持ちになる。

優越感がたちまち劣等感に姿を変える。

 

そんな汚い人間に幸せが訪れるはずがないということは百も承知だ。

幼いころから何度も教えられてきたはずなのに、なぜ自分はこんなにもゆがんでしまっているのだろう。

 

こんな自分は、本当にいやだ。

 

忙殺

 

最近、本当に日々が慌ただしく過ぎていく。

 

ついこないだ12月になったところだと思っていたら、もう1週間。

 

毎晩、まる1日働いた疲れは残っているのに、その日何をしたのかを具体的に思い出せないという状態。

 

喪失感、虚無感、疲労感だけが残る。

 

いろいろと頑張っているとは思う。

でも報われない現実。

 

意味がないと分かっていても、「やっている」という大義名分のためだけに必死になる自分。

 

これが日々に忙殺されるということなのか、と気づく。

 

まさに、やること考えること不安になること心配なこと気になること、脳と身体の忙しさに、心が殺されているような状態。

 

何も、感じない。

何も、残らない。

 

そんな時はいつも考える。

全てやめてしまえば、どうせ意味ないと諦めてしまえば、楽になるのかと。

 

でも私にはその勇気もない。

 

実りのない日々でも、とにかく流れに身を任せて過ぎていきさえすれば、大きなダメージを被ることはない。

 

もしその流れに棹を立てるようなことをしてしまったら、大きな変化は訪れるかもしれないが、私の心はそのストレスに耐えられず砕けてしまうだろう。

 

人間には、絶えず刺激を求めるタイプと、平穏を愛するタイプの2種類が存在すると思う。

 

私には冒険心なるものは、ない。

刺激は、恐れの対象だ。

 

また今日という日にも忙殺されるのだろうか。

好きなもの④

 

動物が好きだ。

 

特に、小さくてもふもふしたものが大好きだ。

 

幼いころは、犬がとても苦手だった。

 

なぜかと言うと、田舎なので野良犬が多く、登下校中にしばしば出くわすことがあったからである。

 

集団登校だったので、行きは犬が大丈夫な友人たちに守ってもらえた。

しかし帰りは個人なので、一緒に帰る友人に犬耐性がない場合もある。

そんな時に限って出くわすのである。

 

記憶にある限り数回のことだが、校舎内に野良犬が入ってきたこともある。

運悪く一階の教室だった我がクラスは、ドッグランと化した。

猛スピードで駆け回る犬に対し、先住民である私たちができたことは、各々が机の上やロッカーに避難し、嵐が去るのを待つことだけであった。

 

話が逸れたが、この犬嫌いも大人になるころには克服されており、それどころか年々動物好きのレベルは上がってきている。

 

ショッピングモールやホームセンターに行くと必ずペットゾーンを訪れる。

 

そして子犬や子猫や小動物や魚を一通り堪能し、目の保養をして帰宅する。

 

動物園や牧場などに行くと、何より楽しみなのがふれあいコーナーだった。

 

コロナ渦で最近はご無沙汰だが、小さな動物たちを撫でたり抱っこしたりすることで、何ともいえない幸せな気分になった。

 

しかしペットを飼うとなると、HSPの私にとっては最大の障壁がある。

お別れが辛すぎるのだ。

 

飼いたいと思っても、楽しい生活の先の先のことまで考えすぎて二の足を踏む、ということを繰り返してきた。

 

しかし、やりたいと思ったことはやれるうちにやっておこうと考え、以前からやりたかったブログを始めたように、ペットもやっぱり飼いたいと意を決し、数ヶ月前にお迎えした。

 

ペットとの生活は大変だが、やはりそれにも勝る癒しがある。

 

終わりの時が来たら…と不安になることはもちろんあるが、迎え入れたことに対しては後悔はない。

 

それまでしっかり世話し、愛情を注いであげたい。

 

先のことばかり考えて不安になるより、今してあげられることをしっかりする、そして自分が極力明るい気持ちで今を大事にする。

 

まだ私にとってハードルは高いことだが、そうすることの大事さに気づかせてもらえたと、感謝している。

好きなもの③

 

好きなものとして欠かせないのが、アルコールだ。

私はお酒が好きだ。

そしてそれなりに強い。

 

鬱病になってから、正直に言うと酒量は増えたと思う。

 

コロナ渦で外に飲みに行くことはほとんどなくなったものの、そのぶん家で飲むことが増え、量も増えた。

 

以前は昼間にお酒を飲むことなんて考えたこともなかったのに、一度やってしまったらそれがないと物足りなく感じるようになってしまった(もちろん仕事がない日だけ)。

 

とはいえ、アルコールがないと落ち着かないとか、毎日飲まないと気が済まないとこそういうことはないので、アルコール依存症ではないと思う。

 

なぜアルコールが好きなのかというと、普段人一倍頭を(無駄に)忙しく働かせているのが、お酒が入ることでぼんやりとして動きが鈍くなり、余計なことを考えなくなるからだ。

 

また、ネガティブ思考もマシになる。

素面のときにはあんなに難しい「まぁいいか」という考えができるようになり、神経質な自分との平和的な折り合いが、いとも簡単につけられるのだ。

 

酔っているときの脳のリラックス具合が、私には心地よい。

 

だから、辛いことがあったときや考えすぎてしんどいとき、腹が立ってそのことばかり思い出してしまうときなどは特に酒が恋しくなる。

 

「酒に逃げている」と言われても仕方がない。

 

でも、薬を飲んでいるのにアルコールは、本来よくないのだろう。

 

家で飲むと、お酒の直後に薬を飲むことになるので、きっと効きすぎるとか変な副作用が出る可能性はゼロではない。

 

お酒をやめたら、もっといい未来が待っているのかもしれない。

 

でも、たちまち直面する心のざわつきや、考えすぎてしんどくなる精神状態が何の緩和剤もなく続くと思うと、怖くて今やめることはできない。

 

どこかで区切りをつけた方がいいのだろうか。

好きなもの②

 

読むことも好きだが、書くことも好きだ。

 

今もこうやってブログを書いていることで、自分の思いを綴れているのがありがたい。

 

そしてそれを読んでくださっている方がいるなんて、今までの私では想像もできなかったことで、感動している。

 

子どものころは作文が苦手だった。

「こう書いておけばいいんでしょ」という、いわゆる模範解答のような文を書いて乗り切っていた。

 

でも今は、好きなことを好きな言葉で表現することに楽しみを感じている。

 

ブログ以外では、仕事でも少し文章を書くことがあるのだが、その仕事は他に比べて好きだ。

 

自分の伝えたいと思ったことを、いろいろと言い回しを工夫しながら綴っていく。

微妙な感覚を絶妙に表してくれる表現に出会えたときなどは、うれしくて思わず表情が緩む。

 

そしてそれを読んだ人から、よく書けているとお褒めの言葉などいただこうものなら、もっともっと書きたい、読んでもらいたいという欲が出てくる。

 

とはいえ、私の語彙は乏しく、なかなかピタッとくる言い方が思いつかなかったり、同じ言葉ばかり使ったりしてしまう。

 

読書をしていて、やはりプロは別格だと痛感する。

読者の想像力を掻き立てたり、情景を的確に描写したりする表現の力が段違いだ。

 

でも私もこれからいろんな本をたくさん読んで、もっと上手に書けるようになりたい。

 

小説など、まとまった物語は書いたことがないけれど、機会があればチャレンジしてみたい。

 

めずらしく前向きな感じで今日は終われそうだ。

好きなもの①

 

私はこれが好きだというものの1つに、読書がある。

本を読むのは好きだ。

 

子どものころから好きだったわけではなく、むしろ読書感想文のために無理やり読む感じだった。

 

本は「読まされる」ものだという意識があった。

 

高校生のころ、何かのきっかけで図書館に行き、たまたま興味を引かれた小説を手に取り読みはじめた。

そうしたら、読書の世界にはまってしまった。

 

初めて、本は「読みたくて読むもの」だと感じた。

 

凝り性なので、気に入った作家の本や、好きなシリーズの本をひたすら借りて読み続けた。

読みたいけれどなかなか出会えなかった本に出会えたときは、物凄く嬉しかった。

 

経済的に厳しかったので、本を買うことはできなかったが、構わなかった。

 

図書館という場所自体が、私には向いていたのだろう。

 

本で埋め尽くされた、物音のしない静謐な空間。

感覚が過敏な私にとっては、刺激の少ない図書館はとても落ち着ける場所だった。

 

また以前、育ってきた環境について書いた回を読んでくださっている方はご存知かと思うが、当時の私は家で毒親ならぬ毒姉によって虐げられていた。

 

彼女からの避難シェルターとしても、図書館という場所、そして読書という没頭できる趣味は、大切な役割を果たしてくれたのだ。

 

それ以来何十年にも渡って、私は本を読み続けている。

 

高名な文学作品などには頭がついていかないし、読める時間も昔ほどは確保できないが、好きなジャンルの本を、自分のペースで読んでいる。

 

テレビや映画のように、視覚や聴覚からの情報が多すぎると私にはストレスになる。

 

私はあらゆる情報を全身で受け止め、共感してしまう。

他人によって描かれ、一方的にこちらに与えられる作り手側の情熱、熱意、一生懸命さを、私は適度なレベルで受け取れないのだ。

 

でも本は、自分の頭の中だけで、いくらでも自分に合うように想像できる。

 

この登場人物はこんな雰囲気だろう。

こんな声だろう。

この人たちはこんな表情で話しているんだろう。

この場面ではこんな音が鳴っているんだろう。

 

脳内に、色鮮やかに、美しく豊かな音声を持って、自分だけの物語の世界が創られていく。

 

それが私にとってたまらなく心地よい。

 

ただ問題なのは、読書をしながら自分の想像の世界に浸っているとき、没頭しすぎて時間を忘れてしまうことがある。

(実を言うと、通勤電車で降りそこねたことも少なからずある)

 

とはいえ、それを途中で遮られることがかなりのストレスになるのも事実だ。

 

うまくバランスがとれるといいのだが。