クリニックで③
主治医は言った。
「鬱状態をマシにすることと、寝られないことを改善することは、薬でできるよ。でも、根本的に適応障害を治すことは、薬ではできない。あくまで出てしまっている症状をマシにするだけ。木口さんの場合、病気を治すには環境を変えるしかないと思う。
例えば、ご主人さんの職場の近くに引っ越して育児を手伝ってもらえるようにするとか、今より負担とか拘束時間の少ない仕事に変わるとか。」
つまり、私が適応できていない環境から、新しい環境へ変わることが、一番の治療だと言うのだ。
確かにいくら症状を抑えても、原因が取り除かれなければ、完全に治るはずがない。
でも、それにはふんぎりがつかなかった。
私は、今の仕事が好きだったから。
確かに、人間関係とか職場環境は私には合っていないのかもしれないけれど、仕事自体にはやりがいがあったし、辞めたくはなかった。
それに、時間をもて余すことは私にとっては苦痛だった。産後休暇や育児休暇をとって子どもと1日中過ごしていたとき、私はものすごくしんどかった。自分のペースが乱されることや、働きが評価されない、達成感が感じられないことが許せなかった。
もしかしたら、今の私なら余裕ができることで精神的に安定するのかもしれない。
でも、あんな思いをするのは嫌だ。
引っ越し直後、必死の思いで勉強して手に入れた今の仕事を手放したくない。
けっきょく私は欲張りなのだ。不満ばかり言っていても、一旦手に入れたものは手元に残しておきたい。でも、そのせいで生まれる苦しみからは解放されたい。
無い物ねだりをしているだけだ。
最終的に、とりあえず今の環境を変えることはせずに、鬱病の薬と睡眠薬で様子を見ることにした。
次の診察の予約をとって、クリニックを出る。
解放感?達成感?安心感?不安感?
どれともつかないような不思議な気持ちだった。
足元がおぼつかず、ふらふら歩いて家に帰った。
最初の診察から2年以上経つが、いまだに私はクリニックに通っているし、薬も飲み続けている。
薬の量を減らすことはできず、少しずつ増えている。特に睡眠薬は、耐性ができてしまって効きが悪くなってしまうので、どうしても増えてしまう。
このまま一生治らないのかな。
一生薬を飲んでいかないといけないのかな。
どこまで増えるんだろう。
以前より状態が悪くなっていると感じる日もあり、不安になることも多い。
でも、あの日クリニックを受診し始めたことに後悔はない。
あの日がなければ、今こんな状態の自分すら、いないと思うから。
仕事あり、既婚、子どもあり。
きっと端から見れば、私たちは幸せそうな4人家族で、私は恵まれた環境にいる。
もし私の状況を知ったら、
「何であなたみたいな人が精神的にやられるんですか。」
「世の中にはもっと苦しい人がいるのに、あなたは弱音を吐いているだけだ。」
そう思う人もいるだろう。
でも、それでも私はうつになった。
それは、どうしようもない真実だ。