育った環境④
担任教師にも寄り添ってもらえなかった私は、とうとう母に進学の悩みを打ち明けた。
やはり母は、大学には行かないで欲しいと言った。
経済的なことはもちろんだが、やはり大学に行きたいと言いながら行かせてやれなかった姉のことを思うと、妹だけというわけにはいかない、と。
私は計算していた。姉の2年間の専門学校の学費と交通費より、私が目をつけていた国立大学の4年間の学費、交通費の方が安かったのである。
だから、母が本当に気にしているのはお金のことではなく姉のことだということは始めから分かっていた。
そうまでして姉を守ろうとする母。私の将来よりも姉を選ぶんだ、と思い知らされたことは、さすがに辛かった。
でも私も引くわけにはいかなかった。ここで気持ちが折れてしまったら、もう這い上がれない。頼れるのは自分しかいない、とひたすら耐えた。
私は、はなから行かせてもらおうなんて思いは捨てていた。
親からお金は出してもらわない。
自分で行く。
奨学金で学費をまかなって、あとはバイトで必要なお金を稼ぐ。
奨学金も、働き出したら自分で返す。
私立大学は学費が高いから受験しない。
国立一本で、ぜったい合格する。
予備校とか塾も通わせてほしいとか頼まない。
自分で勉強して、自分でお金を出して、大学に通う。
だから、許してほしい。
そう、頼んだ。
母は、ずいぶん悩んだようだ。事実、この時の家の状態としては、経済的なことよりも姉の暴言や暴力の方が大きな問題だった。
私に許可を与えることで、姉の状態がさらに悪くなり、行動も酷くなることは目に見えていた。
最終的に、約束どおりにできるなら、大学を受験してよいと言ってもらえた。
嬉しかった。
けれど、同時にいろいろなプレッシャーも抱えてしまい、味方も相談相手もいない中、苦しくて、不安で、勉強しながら、寝る前の布団の中、学校への行き帰り、涙が出てくることもあった。
その時の私にできたことは、とにかく余計なことを考える時間を作らないことだった。プレッシャーもそうだけれど、人を羨む気持ちも、姉を疎ましく思う気持ちも、出てくる隙を与えないようにひたすら勉強した。
でも本当に、私は天も神も仏も運も、何もかもから見放されていたのだろう。
私が大学を目指していると知った姉は、怒りに任せ、抵抗のために最悪の手段をとった。
通っていた学校で自傷行為を起こし、病院に運ばれたのだ。