去年の大掃除
少し遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。
ここ数年喪中が続いていたので、久しぶりの「おめでとう」です。
そう思うと、親戚が誰も亡くならず1年を終えられるというのは、とてもありがたいことだと改めて認識する。
昨日から仕事。本格的なスタートは来週からだが、リハビリのつもりで今週から少しずつ始めていこうと思っている。
タイトルの、去年の大掃除のこと。
毎年「年末」というワードのプレッシャーに押され、1年の終わりくらいきれいに片付けて掃除して新年を迎えないといけない、と頑張っていた。
でも去年は、「心の大掃除」にした。
目に写る場所を美しく整えても、そうすること自体が負担ならやらなくていい。
それよりも、1年間がんばり続け、擦りきれてボロボロになった自分の心を労り、きれいにしてあげよう。
たまたま見ていたツイッターでそういう考え方を知り、実践することにした。
どうしても掃除したいと思うところを掃除し、過度なストレスにならない程度で済ませられる片付けだけをしたら、それ以外は放っておいた。
旦那は当然いい顔をしなかった。
彼は割にそういうことはキチンとしたいタイプなのだ。
でも、結論から言うと、これでよかったと思う。
多少これでいいのかと悩むこともあったが、結局掃除しなくても例年どおり年は明けた。
大丈夫だった。
大掃除が無駄だとは思わないし、毎年これではさすがにダメだと思う。
でもとりあえず今回の年越しは、私の現在の状態と照らし合わせれば、正解だったのではないだろうか。
ということで、今年は力を入れすぎない、「いい塩梅」ができるようになることを目標にしていきたいと思っています。
今年もよろしくお願いします。
感情が消えた
ものすごく辛いことがあった。
でも、泣くことも怒ることも悲しむこともできなかった。
もちろん涙なんて出なかった。
ただ、どうしたらいいんだろう、何をすべきなんだろう、私の責任だな、と頭の中を同じことがぐるぐる回り続けるだけで、感情が外に出せなかった。
目の前に相手がいるので、何か言わないといけない、何か表情に出さないといけないと思いながらも、そのやり方を忘れてしまったかのように、眉毛1つ動かせず、ただ呆然としていた。
思えば、笑うことももうずっとしていない。
子どもからも、お母さんって笑わないね、何したら笑うの?と言われている。
鬱病になって、最初のころは泣いたり怒ったりをおかしなくらい繰り返していたのに、ここ数ヶ月は、まるでその反動であるかのように、感情が消えてきている。
思うことはあっても、それをどう出せばいいのかが分からない。
どうやって自分は表情を作っていたのだろうか。
どうやって相手に言葉をぶつけていたのだろうか。
そのあとどうやって気持ちを整理していたのだろうか。
その時私は何を考えていたのだろうか。
特に辛いことがあったときは、頭に霞がかかったようになって、ひたすら自分の頭の中だけで思考が駆けめぐる。
そして、自分の責任を追求する。
私に何か悪いところがあったからこうなってしまったんだ。
でもどうしたらいいのだろう。
いや、できたことはもっとあったのに、お前が手を抜いたり甘えたり油断したりしたからこうなったんだろう?
分かっているのに逃げるな。
分かっているならお前がもっときちんとしろ。
サボるな。
手を抜くな。
甘えるな。
でないと、また同じことが起こるぞ。
人に迷惑がかかるぞ。
ちゃんとやれ。
自分の中の、鬱病を怠けだととらえ、許さない部分が出てくる。
自分をいたわることも大事だ、それは逃げや甘えじゃない、そう慰めようとする部分を追い詰めてくる。
以前の私には、自分がこう思ったらこう!という頑固さがあった。
それは自信や強さでもあった。
それは私を守ってくれていた。
でも、今の私には何もない。
自分の気持ちにすら、本当にそんなこと感じているのか疑念が湧く。
そんなこと思う資格があるのか、と自分で自分を責める。
冷静になって考えれば、感情に資格なんているはずもない。
でも、もう今の私は、誰かに
「怒ってもいいですよ」
「泣く資格がありますよ」
「笑っても誰も責めないですよ」
「悲しんでも大丈夫ですよ」
と許可をもらわなければ何も出せない。
最近のクリニックで
この前クリニックに行ってきた。
1ヶ月ごとの定期診察だ。
だいたい他の患者さん達も1ヶ月ごとに、毎回ほぼ同じ時間に来院しているようで、私が行くと大抵同じ顔ぶれが待合室にそろっている。
でも、声をかける人はだれもいない。
いつも受付の女性に生き生きと話しかけているおじいさんがいるくらいだ。
歯科や耳鼻科なら、それほど大きな病気である可能性は低いからか、待合室が沈黙で満たされていたという経験はあまりない。
子ども連れの人も多いから、必然的に少し騒がしくなったり、和やかになることもあるだろう。
しかし精神科に、無邪気な幼児は通院しない。
そして大人も、子連れで診察を受けにくることはあまり気が進まないのではないだろうか。
かくいう私も、とっくに物心ついている2人の子どもをクリニックに同伴することは絶対に避けたいと思っている。
子どもたちは、私が医者に通い、薬を飲んでいることは知っているが、病名など詳しいことは話していない。
でも母親の姿を見ていれば、何となく分かるのだろう。
私が堕ちているときに、どうしたの、などは聞いてこない。受け入れて、2人で遊んでいる。
だからこそ、もしクリニックに連れていけば、自分の母親は心の病気なんだ!という現実を突き付けられ、きっとショックを受けるだろう。
それは私にとっても辛い。
ただでさえ負担をかけている我が子に、これ以上重いものを負わせなくない。
私は4月から環境が大きく変わる予定だ。
今回の診察では、とにかくそれまで現状維持に努めるという方針を、以前と変わらず継続するということになった。
環境の変化が吉と出るか凶と出るか、それは分からない。
でも今は、それに望みをかけるしかないのだ。
年末
最近、何かに追われるように忙しい。
ここ数週間は、土日も休んでいるか休んでいないか分からないくらい常にバタバタしている。
それでも不思議なもので、何かをしているから忙しいはずなのに、その内容が思い出せない。
しかしよく考えてみると、忙しいというよりは気忙しい、という感じのように思える。
この時期は仕事の量が増えるという物理的な原因もあるのだが、それ以上に気持ちが焦っている気がするのだ。
あと、常に人と同じ空間にいることがしんどい。
何も話さなくても、だれかの存在がそこにあるだけで、私はそちらに注意力の何分の1かを注いでしまうので、常に緊張状態にある。
それは、家族でも同じ。
特に子どもは、ケンカしていようが仲良くしていようが、静かにマンガでも読んでいようが、いつも私に何らかの心配をさせる。
うるさいならイライラするし、仲良くしていたらそのうち調子に乗りすぎて変なことをしやしないかと気になるし、静かなら熱でも出してへばっているんじゃないか、寒い部屋で毛布ひとつかぶらず眠ってしまっているんじゃないかと心配になる。
気にしすぎだと言われても、どうしようもない。
こんなだから、頭の中が弛緩する暇がない。
本当は、誰もいない、1人だけの空間に逃げたい。
私が人のことを考えなくてもいいようにしてほしい。
人の目を気にしなくていい、おおらかな性格になりたい。
でも根本的には、自分のことを考えてくれなんて誰に頼まれたわけでもない。
私が勝手に、ありもしないものに過敏になってオタオタしているだけ。
自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回ってる犬みたいな感じだな…。
耐え難い瞬間
先日ツイッターにあげたことなのだが、とても心苦しい瞬間があった。
同じ部屋の中にいる人への否定の言葉や不平不満を、まるでその人がいないかのように、本人に聞こえるか聞こえないかの声で、数名でぶちまけ合っていたのだ。
本人には、絶対に聞こえていたはずだ。でもその人も懸命に気付かないふりをしている。
集団は、他の同僚や、最終的には管理職をも巻き込み、どんどんヒートアップしていく。
言っていることは私にも理解できるし、共感もできることだった。
実際にそこから迷惑も被った。
でも、あんなこれ見よがしな嫌がらせは、いやだ。
私は言われている人の気持ちに立ってしまう。
あの人は今どんな気持ちなんだろう。
自分があんなことされたら耐えられない。
これはHSPの特徴だ。周りの人が怒られているだけでも心がキュッと縮こまる。
いたたまれない気持ちになって、その場にいられなくなる。
もしかしたら、言われている側はそれほど気にしていないかもしれない。
悲しみではなく、怒りを感じているのかもしれない。
だから正確に言うと、私はその人に共感しているわけではなく、自分の尺度を用いて想像し、勝手にその気持ちを自分に投影している、ということになる。
私が関係のないことに心を乱されるだけで、他に誰にも何のメリットもない。
でもやっぱり、誰かが悪口を言われているとか怒られているシーンは気持ちがズーンとなる。
かといって、やめときましょうよと止めると、今度は自分が何を言われるか、何を思われるか想像するのが怖くて、止めることもできない。
学校のいじめの構造と同じだ。
私は臆病者の傍観者だ。
怖かったこと
ここ一週間ほど、ずっと探し物をしていた。
普段のあまり使わないものなのだが、ないと気づいた日の前日、職場でちょうどそれを使ったという記憶があった。
持ち帰った仕事をしようと家で準備しているとき、はたとそれが無いことに気づいたのだ。
まず家の中を探した。
小さいものなので、家具や積み上げられた郵便物の隙間にでも入ってやしないか、何度も探した。
そのもののイメージは、はっきりと頭に浮かんでいる。
色や形、大きさ、そして昨日使った場面まで。
これだけ探してもないということは職場に置いてきてしまったのかなと思い、翌日出勤するやいなや机の回りを探した。
全ての引き出し、いろいろな隙間、机の下まで覗き込んで探しても、ない。
通勤カバンにの中に落ちてる?
…ない。
その日来ていた服のポケット?
…ない。
私の特質上、気になって仕事中もそのことばかり考えてしまう。
数日間探し、考え続けた。
そのとき、ふと頭に浮かんだ。
「そもそも、本当に使った?」
「そんなもの、あったっけ?」
職場で、その時同時に使ったものを改めてみる。
今あるもので、全て事足りる。
ということは…
ぞっとした。
初めから、そんなもの使っていなかった。
持ち歩いてもいなかった。
私の勘違いだったのだ。
でも、それにしては物のイメージが鮮明すぎるし、場面も具体的に思い出せる。
私は、ありもしないものを作り上げ、無くしたとパニックになっていたのか…
今までに勘違いは何度もしてきたが、こんなにも信じられない事態は初めてだった。
自分の記憶がこんなにも混乱した経験はなかったので、本当に自分が怖くなった。
12月
今朝もまた電車が遅れている。
12月に入ってから、定刻どおりに来る電車が減っているような気がする。
「お客様と接触」というアナウンスもよく聞く。
きっとほとんどが偶発的な、ほんの少しの接触なのだろうが、もしかしたら…と思ってしまうのは、自分の中にもそういうことを考えてしまうときがあるからだろうか。
今では少なくなったが、駅を通過する特急列車や、猛スピードで道を走って行く大型トラックを見ていて、「ああ、あれにぶつかったらひとたまりもないだろうな」と、気づけばぼんやり想像している自分がいる。
ビルの屋上を見上げて、「あれくらいの高さから落ちたらケガくらいで済んでしまうのかな」とか、「落ちるときは全てがスローモーションに見えるとか言うけど、本当なのかな」とか考えている自分がいる。
たぶん普段の状況くらいの私なら、そのようなことは実行しない。
というか、できない。
すべてを終わらせる勇気がない。
でも、日々波打つ心のバイオリズムが底辺にあるとき、何かのきっかけで衝動的に、と少しでも可能性が浮かんでしまうのは、そして、そのイメージが以前よりどんどん鮮明になってきているのは、やはりこの病気のせいなのだろうか。